ミルトン・フリードマン氏: リベラリズムは衆愚政治である

新自由主義の経済学者ミルトン・フリードマン氏が、経済学者フリードリヒ・フォン・ハイエク氏の著書『隷属への道』の序文において現代のリベラリズムを痛烈に批判している。

共産主義としてのリベラリズム

1912年にアメリカに生まれたフリードマン氏は自由主義(リベラリズム)の経済学者として知られる。しかしフリードマン氏の「リベラリズム」は現代におけるいわゆる政治的なリベラリズムとは全く別ものである。彼は次のように言う。

わたしはハイエクと同様に自由主義(リベラル)という言葉をその語源通り「権力が制限された政府と、政府その他による外部からの干渉がない自由な市場」という意味で使うのであって、その意味とはまったく逆の意味を持つようになってしまっている米国においてこの言葉の持つ腐敗した意味でではない。

隷属への道』は基本的には共産主義・全体主義を批判する本である。しかしフリードマン氏はこの本が現代にとってこそ重要であると言う。何故ならば、共産主義は資本主義社会においても公然と生きているからである。

フリードマン氏は次のように言う。

勿論当時と同じような共産主義者による誤った主張は今も変わらず主張されているだけでなく、むしろ増加していると言える。しかし現代の共産主義者の直接の論点は昔と同じではないし、彼らの使う特殊な用語も戦時中や戦後のものとは異なっている。

国民から税を徴収して莫大な予算を立てるには名目が必要である。フリードマン氏によれば、かつては「中央集権的計画」「使用のための生産」などの言葉で大規模な予算とそれに伴う徴税が行われたという。共産主義が崩壊して久しい現代ではもはやこれらの言葉は聞いたことがないだろう。

しかし社会主義の恐怖は別の衣装を着て現代にも現れている。現代では別の言葉を使って同じように政治的予算のための徴税が行われる。1994年に書かれたフリードマン氏の文章に挙げられる例は2021年にはほとんどは消え去っているが、まだ生き残っているものもある。彼は次のように書いている。

また「環境の危機」も叫ばれるようになっている。この危機は強欲なビジネスマンによって生み出されているというのだ。

そしてこれらの危機は巨大に膨らんだ政府の政策によってのみ解決できると主張されている。

そして現代ではコロナ対策だろう。日本政府はコロナ対策の名目のもとに好きな票田へと資金をばら撒き始めている。こうした政府による資金投下についてフリードマン氏は次のように述べている。

こうした政策の中身は、現実には政府がまったく恣意的に国民の一部から税金を略奪して国民の他の一部に補助金として与えるということでしかない。

これらの政策のどれもがすべて平等と貧困の根絶のためという名のもとに行われている。しかしこれらの社会福祉政策は、そのどれもが原理原則を欠いてコロコロと変化しており、相互に矛盾した要素の集まりでしかない補助金を特定の利害グループに与えているにすぎない。結果、政府によって消費される国民所得の割合は巨大化してゆくばかりとなっている。

日本政府はコロナ対策のために人々を旅行に行かせることが重要だと主張した。面白い冗談である。それでも自民党が与党から外れることはない。

政治的予算には常に綺麗な名目と本当の受益者が存在する。少々頭の足りない人々は綺麗な名目に騙されてしまう。問題は、有権者のほとんどがそういう人々だということである。

衆愚政治としてのリベラリズム

例えばグローバリズムにおける移民政策も同じような目的で行われた。シリア難民が、あるいはシリア難民のふりをした別に難民でも何でもない人々が、ヨーロッパではタダ飯にありつけると吹聴したメルケル氏の甘言によって地中海で溺れて死んだ。反対したイギリスはリベラルな人々によって「反知性主義」と罵られた。

受益者は誰か? 安価な労働力が命を懸けて自分のところに来てくれる多国籍企業である。ユニクロの柳井氏が移民賛成であるのは当たり前のことである。ユニクロのホームページには「世界を良い方向に変えていく」というタイトルの移民賛成の言論が載っている。

フリードマン氏は次のように語っている。

共産主義のためのどんな議論も、虚偽を集めたイデオロギーでないとすれば、感情に直接訴えかけるだけのきわめて単純な言論でしかない。

本当の自由主義

あらゆる名目であらゆる予算が積み上げられ続けている。とりわけ西洋では「環境」やら「倫理」やら「人権」のためだと叫ばれている。カリフォルニアのオークランドでは今月、有色人種の家庭に毎月500ドルを配る実験を開始すると発表された。これは人種差別ではないのか。

彼らの言う通りにすれば「世界は良い方向に変わる」そうである。そういう名目のもとに税金は召し上げられる。その資金を政治家たちは好きに使っている。フリードマン氏は次のように言う。

インテリの共同体の大半は政府の権力の拡大が悪質な巨大企業から個人を守るためだとか、貧困者を救済するためだとか、環境保護のためだとか、「平等」を各国において促進するためだとか等々と政府が喧伝すると、ほとんど自動的にその拡大を支持してしまう。

世界を自分の思う通りにしようという思い上がりのことをいつから自由主義(リベラリズム)と呼ぶようになっただろうか。ハイエク氏はこの意味で『致命的な思いあがり』という題の本を書いている。

「致命的な思いあがり」についてフリードマン氏は次のように述べている。

社会の様々な悪は邪悪な人々の活動によって生まれており、自分たちのような善良な人々が権力をふるいさえすればすべて上手く行くと信じるのは心をそそる考えではある。そのためには人々の感情と自画自賛の心があれば十分だろう。それらは容易く手に入り、人々の心を満足させもする。

しかし実際には邪悪を生み出すのは権力を持った「善良な」人々である。反対に良い結果を生み出すのは、権力は持っていないが隣人との自発的な協力のために活動できる普通の人々だ。これが理解できるようになるためには感情抜きの分析と思想が不可欠であり、もろもろの感情を理性的な力へと隷属させなければならない。

われわれは現代のリベラリズムではない、本当の自由主義を思い出すべきなのではないか。そうでなければ、綺麗な言葉によって飾られた政治的な腐敗のために、あるいは東京に打ち立てられた便器のために予算は積み上げられ続けるだろう。

出典:産経新聞

人々は隷属を続けている。国の借金が量的緩和で消えてなくなることはなく、この『隷属への道』の結末は2つしかない。物価高騰か重税である。前者はアメリカで、後者は日本で既に起きている。人々は隷属したままである。


隷属への道