アダム・スミス: 国の経済は政治家ではなく神の見えざる手に任せよ

前回の記事で、スタンレー・ドラッケンミラー氏が学生時代にアダム・スミスの神の見えざる手の議論に興味を持ったということを紹介した。

だから今日はアダム・スミスの『国富論』から、見えざる手の話が出てくる第4編第2章の議論を紹介しよう。

見えざる手

神の見えざる手は経済学の用語の中でも一般にも有名な単語となっているが、厳密な意味はあまり知られていないかもしれない。

ちなみに原著に出てくる単語は「見えざる手」(an invisible hand)なのだが、これはキリスト教の「神の見えざる手」を借用した言い方なので、その訳もあながち間違いではないだろう。

さて、アダム・スミスが議論しているのは、経済の中でのどういう行動が社会全体の利益になるかということである。

資本主義社会においては、人は自分の利益のために経済活動を行なう。一方で、例えば政治家が公共の利益のためという言い分で税金を資金源に公共事業を行なうこともある。

公共事業か自由な経済活動か

果たしてどちらが社会のためになるのか。『国富論』では次のように述べられている。

商業に対して政府が行なうどんな人為的な操作も、労働の量をその社会が持つ資本が雇用できる量を超えて増加させることはできない。そうした操作は労働の一部をそうした操作がなければ行かなかっただろう方向に誘導することしかできない。

だがそうした人為的な誘導の向かう方向が、労働が自然に向かっただろう方向よりも社会にとって有益かどうかは、まったく定かではないのである。

労働の誘導とは、例えば日本政府が税金を東京五輪や大阪万博に投下し、何百億ものお金で労働者を引き寄せることである。

一方で、公共事業が行われなければ、それらの労働者はお互いの利益を目指した雇用契約によって雇用先を決めていただろう。

では、個人が自分の利益のために経済活動を行なう場合はどうなるか。アダム・スミスは次のように続けている。

すべての個人は、自分の扱える資本の量にかかわらず、そのためにもっとも有利な雇用関係を見つけるため常に努力している。

それはまさにその人個人の利益であって、社会の利益ではない。だが個人の利益を追求することで自然に、あるいは必然的にその人は社会にとってもっとも有利な雇用を選ぶことになるのである。

何故そう言えるのか。彼はこう続ける。

雇用主は、労働の成果物の価値が大きいか小さいかの割合に応じて利益を得ることになる。だがその人が雇用のために資本を使うのは単に自分の利益のためである。

だからその人は労働の成果が最大の価値を持つように、あるいは出来る限り多くの貨幣や他の生産品などと交換できるように、資本を使おうと努力することになる。

ここで考えてもらいたいのは、出来る限り多くの貨幣や他の生産品と交換できるということがどういうことかである。それはその人の仕事にそれだけ多くの対価を払いたいと思う人が存在するということである。

だから多くの対価を求める人は、多くの対価と交換できるような仕事をしなければならないことになる。一方で、東京五輪のために作られた大きめの便器は、その後誰も使わないものに成り果てている。

出典:産経新聞

また、これまでの人為的な低金利政策によって、誰も貨幣と交換したいと思わないような商品を作るゾンビ企業も長々と延命されてきた。そうしたゾンビ企業の浪費する資源や労働力も、低金利政策がなければ別の経済活動に使えていたはずなのである。

結論

何故こうなるのか。個人の経済活動の目的は多くの対価と交換できる仕事をすることであり、公共事業などの経済政策の目的は企業献金をしてくれる企業や票田にばら撒くことだからである。

アダム・スミスは次のように言っている。

わたしは公共の利益を推進するとうそぶいている人によって大きな何かが成し遂げられた例をまったく知らない。

さて、自分のための行動が相手のためにもなるという資本主義の根幹は、今では当たり前のことだが、まさにアダム・スミスによって広められ、当たり前になった事柄なのである。

彼は次のように書いている。

実際、人は一般に公共の利益を促進しようとしているわけでもなければ、自分がどれだけ社会に貢献しているのかを把握しているわけでもない。

しかし見えざる手に導かれ、自分が意図していない目的を実際には促進しているのである。

これが『国富論』において「見えざる手」が書かれている部分なのである。

彼はこう続けている。

また、公共の利益を意図していないことは、必ずしも社会にとって悪いことではない。人は自分の利益を追求することで、意図的に公共の利益を促進しようとする時よりも効率的に公共の利益を促進することができる。

結論

ケインズ経済学以来、誰が見ても何の利益も生まないような公共事業が量産されてしまった。

だがアダム・スミスの時代にせよ、経済学者フリードリヒ・フォン・ハイエク氏の生きた20世紀にせよ、現代のファンドマネージャーたちにせよ、頭のある人は皆同じことを言い続けているのである。

経済を学びたい人はまず『国富論』を読むべきである。その次はハイエク氏の著書だろう。


国富論