テクニカル分析が相場を予測できない理由

今回はやや数学的な話である。

テクニカル分析かファンダメンタルズ分析かという論議は、金融関係者のなかでは非常に古典的な議論であるが、少なくともテクニカル分析は市場の未来を予測できないという点は比較的容易に証明可能であるにもかかわらず、非常に多くの人々がいまだ正しく理解をしていないという点で珍しい論題である。

しかも、個人投資家のみならず、金融のプロフェッショナルでもテクニカル分析で市場の未来を予測できると思っている人が沢山いる。あるいは、直接そう主張せずとも、そういう考えを自分の投資方針に持ち込んでいる人は著名投資家でもかなり多い。しかし、ここではっきり宣言したい。テクニカル分析は市場の上げ下げを予測することはできない。理由を以下に説明する。

標本空間

先ずは確率と統計の基礎から話さなければならないが、それほど難しい話ではないので、興味のある人は読み続けてほしい。

サイコロを振ると、出る目は1、2、3、4、5、6の6通りであり、この6通りの事象はそれぞれ同確率で発生すると検証されたとする。サイコロに関する確率計算の基礎となるこの6通りの事象と、その確率に関する情報を標本空間と呼び、この基礎的情報をもとに、例えばそのサイコロを2度振って(3, 6)が出る確率など、他の事象の確率を計算することができるのである。

この確率計算は、標本空間が不変である(サイコロが欠けて、ある目が他の目よりも出やすくなったりしない)という前提のもとにのみ成り立ち、標本空間に変更があった場合、同じ計算で正確な事象の確率を求めることが出来なくなる。金融市場では、この「標本空間の変化」が毎日のように起きている。より分かりやすく説明するために、統計を生業とする保険会社を例に挙げたい。

保険会社の場合

例えば、保険会社が30歳の男性を10万人集めれば、10年後には何人生存しているかということはほぼ正確に予想できる。保険会社はこの統計的事実を利用して、生命保険などの将来の支払い額を予測している。この場合、30歳男性の寿命に関する情報、どの程度の確率でどれくらい生きるのかというデータが、標本空間ということになる。

猿と保険会社のたとえ

さて、ここでこの10万人の男性を保険会社に内緒ですべて猿に取り替えたとしよう。30歳の猿と言えばもうかなり年寄りだから、10年後生存率は高くないはずである。しかし、対象が入れ替わったことを保険会社が考慮に入れずに保険料と将来の支払い額を計算してしまうと、予定よりも大幅に多くの猿が保険期間内に死亡し、保険会社は少ない保険料に対し多くの支払いを強いられ、大損を被ることになる。

実際に売買を行い、価格を決定する投資家が入れ替わる金融市場で、テクニカル分析を用いて相場を予測して賭ける投資家というのは、この例えのなかの保険会社とまったく同じなのである。死亡日という結果のみに着目し、基礎となる対象の変化は考慮に入れない。しかも金融市場における「標本の入れ替わり」は恒常的であり、そしてしばしば非常に急激でもある。

市場参加者である投資家は毎日入れ替わり、継続して参加している同じ参加者でもそのマインドは日々変わっている。同じ人物でも、資金に余裕のある時と、生活費さえ苦しい時とでは、トレーディングの質が変わることもあるだろう。

また、大局的な観点からも、株高に沸いた2007年までのマーケットと、暴落後の2008年以降のマーケットでは投資家のマインドはまったく違って当然であり、また途中で退場した参加者、新しく入ってきた参加者も居るはずである。しかしテクニカル分析では、こういった市場参加者の質的・量的変化といった価格の裏にある背景を考慮せず、同じチャートの形はすべて同じものとして扱ってしまう。

「統計的に有り得ない」が有り得る

市場価格に関する統計的予測が破綻している証明として、金融市場では、統計的には1000年に1度しか起こらないことが短期間で何度も起こることがある。有名な例だが、ノーベル賞受賞者などにより設立されたヘッジファンド、LTCM(Long-term Capital Management)は、様々な事象の確率を計算し、発生確率の低い事象をあまりに軽視してポジションを取った。その結果、何年に一度も起こらないはずのアジア通貨危機とロシア財政危機が立て続けに起こったことで破綻に追い込まれたのである。

統計的に有り得ないことが起こったということは、標本空間における前提情報が間違っていたということである。過去の情報をもとに確率計算をしたため、標本空間が変化してゆく現実の世界にはそぐわない計算結果となってしまったが、LTCMの経営陣はそれに気づいていなかったのである。

テクニカル分析の価値

価格という単純な結果のみによって描かれるグラフを元にしたテクニカル分析では、標本空間の変化には対応することができないというのが結論である。

ではテクニカル分析には価値がないのか? まったくそんなことはない。統計的に有り得ない事象が起こった場合、「だから統計は当てにならない」と考えるのではなく、「標本空間が変わったのだ」と考えるべきなのである。

標本空間が著しく変わったということは、相場のなかで根本的な何かが変わったということであり、それはトレンドの転換や、投資家のマインドの変化など、投資家にとって有益な情報を示唆しているのである。道具も使う人物次第ということで、投資家が適切な道具を適切な方法で用い、相場で統計学の誤謬に陥ることのないように祈りたい。