ヘリコプターマネーはドル円とマネタリーベースにどう影響するか

ヘリコプターマネーが話題となっている。日本政府がヘリコプターマネーを検討し始めたようであり、Fed(連邦準備制度)の前議長であるバーナンキ氏も来日して安倍首相と話したという。

バーナンキ氏はヘリコプターマネーに何度も言及したことから「ヘリコプター・ベン」と呼ばれた中央銀行家であり、ロイターによればバーナンキ氏は安倍首相に「金融政策に限界はない」と話したという。

この発言の真意も含めて、バーナンキ氏がヘリコプターマネーの可能性について話したとすればどのようなことを話したかは大体予想が出来るから、その辺りを順に説明し、また最近の為替相場における円高に関心のある読者も多いだろうから、ヘリコプターマネーが円安をもたらすかどうかについても詳しく議論したい。

ヘリコプターマネーとは何か?

先ずはヘリコプターマネーの定義を明確にすることから始めたい。名前だけが一人歩きしているヘリコプターマネーだが、その定義は実は必ずしも明確ではない。

先ずこの用語は経済学者ミルトン・フリードマンが金融政策に関する論文のなかでヘリコプターから現金をばら撒く比喩を用いたのが始まりで、現代では中央銀行が国民に向けて貨幣を印刷して配布するような金融政策という風に大雑把には理解されている。

しかしながら、現代社会において金融機関ではない民間の経済主体(消費者や企業など)に資金を供給するのは政府の役割とされていることから、実際に資金をばら撒くのは中央銀行ではなく、政府ということになる。だからヘリコプターマネーとは、中央銀行が政府に資金を供給して、政府が民間にお金をばら撒く政策である。

また、政府への資金供給は、技術的には政府が国債を発行し、それを中央銀行に引き受けさせる形となるだろうから、ヘリコプターマネーとは中央銀行による国債引き受け(財政ファイナンス)のことであるとも言える。

既に行われているヘリコプターマネー

しかし、ここまで読んで何かがおかしいと思った読者がいるだろう。上記のような中央銀行の国債引き受けは既に行われているのではないか、ということである。その通りなのである。

現在既に行われている量的緩和は、中央銀行による国債引き受け政策である。黒田総裁の率いる日銀は現在国債を買い入れ、しかもそれを売りに出すことをしていない。これは現在していないというだけではなく、よほどの天変地異でもない限り日銀は保有国債を売りに出せないだろう。

だから量的緩和は既にヘリコプターマネーなのである。形式としては政府は一度国債を民間に売りに出し、日銀は民間から国債を買っているが、それは事の本質に一切影響を与えない。日銀は既に国債を引き受けており、政府は量的緩和によって債務負担が減ったことを頼りに財政出動を行っている。以下の記事で報じた通り、それは政府も認めている通りである。

だから本来は、現在の量的緩和以外にヘリコプターマネーという別の緩和政策が存在するわけではないし、量的緩和に限界があるならばヘリコプターマネーがそれを打開できるわけでもない。具体的に例を見てゆこう。

財政出動のための国債引き受け

例えば、政府が更なる財政出動を行うために国債を発行し、それを日銀に引き受けさせ、その資金で公共事業を行ったとしよう。政府の支出はそのままGDPの内訳の一つであるから、GDP1%分だけ支出を増やせばGDPは1%増えることになる。日本のGDPは500兆だから、政府は5兆円の国債を新たに発行し、日銀がそれを買い入れれば良いことになる。

これを毎年行えば、日本の名目GDPは毎年無条件で1%上乗せされることになる。政府の消費とは市場で実際に必要とされている需要ではなく、官製の需要であるから、それが良いことかどうかは怪しいが、それでもGDPは拡大する。

それでドル円はどうなるか?

毎年GDPの1%上乗せはなかなかの規模の経済対策だが、それでドル円はどうなるだろうか? 実はほとんど変わらない。それは上記の例で上乗せされた5兆円と、現在の日銀の国債買い入れ額を比較すれば素人にも明らかだろう。

現在、日銀は毎年80兆円の規模で国債買い入れを行っている。だからこれに5兆円を上乗せしたところで、どう考えても雀の涙でしかない。GDP2%分としたところで10兆円であり、これでは普通の「国債買い入れ額増額」である。日銀の緩和余地に疑問を持っている今の市場では、それほどの円安効果はないと考えるべきだろう。

また、ドル円を考えるのであれば、アメリカに残された手段が量的緩和再開であることに着目しなければならない。著名投資家は皆その来たるべき衝撃に備えようとしているのであり、そこで日銀が10兆円程度の増額(それでもGDP2%なのだが)をしたところでドル円に影響を与えることは出来ないだろう。

為替相場に影響を与えたければ50兆円以上の「ヘリコプターマネー」が必要となるだろう。それでも米国の量的緩和再開のインパクトには対抗できないだろうが、50兆円はGDPの10%に相当し、そのような規模の財政出動を恒常化すれば日本は中国のような(あるいはバブル期の日本のような)管理経済になってしまう。その行き着く先は、日本人は皆知っている通りである。

ドル円を動かすヘリコプターマネー

だから日銀に国債を引き受けさせて公共事業を行うという案ではドル円を動かすことは出来ない。より政策としての可能性があるとすれば、その分の資金をそのまま国民に配る方法である。この案には致命的な欠点があるが、それは後で語るとしよう。

上記の50兆円を毎年国民に配り続けたとしよう。日本の人口は大雑把に1億人程度であるから、国民は毎年50万円を受け取ることが出来る。国民はその資金の一部を消費に回すことになるが、これは国民が買いたいものを買うわけであるから、公共事業による官製の需要ではなく、本物の需要である。

この方法は、日本経済を管理経済に歪めることなくドル円を上昇させることが出来るという意味では成功している政策であると言える。GDP10%の規模はもはやデノミネーションの領域だが、それでもバーナンキ氏の言う通り、「金融政策に限界はない」。

ではヘリコプターマネーでドル円を上昇させる(あるいは下落を止める)ことは出来るのか? しかしこの政策が本当に可能であるかどうか、先ずはヘリコプターマネーという名前を一度忘れて考えなおしてほしい。

ヘリコプターマネーという名のベーシックインカム

先ず、日銀による国債買い入れと政府による財政出動を分けて考えなければならない。日銀は国債を買うのであり、政府はそれとは独立の行動として国民に現金を配るという財政政策を行うのである。これはベーシックインカムと呼ばれる所得再分配政策に相当する。

だが日本政府がベーシックインカムを導入するだろうか? ヘリコプターマネーという言葉を考えずにこの疑問に答えようとすれば、多くの人が否定的な意見を示すだろう。だがヘリコプターマネーという言葉を使った途端に、それが現実的な政策であるかのように思えてしまう。しかしこのベーシックインカムを実際に許可する権限を持っているのは日本の政治家であり、そして財務省なのである。

先ず、財務省はこの政策に反対するだろう。財務省にとってヘリコプターマネーは単に政府の債務が膨らむだけである。安倍首相が財務省に対して提示できる交換条件は消費増税の確約だが、消費増税を行ってそのお金をヘリコプターマネーで国民に返すのでは、一体何をやっているのか分からない。そもそもベーシックインカム以前に減税をすれば良いのであり、量的緩和にもかかわらず消費減税を考えもしなかった日本政府がいきなり減税と同様のベーシックインカムを考えるはずもないのである。

また、もう一つ考えてほしいのは、増税と財政出動という矛盾した政策が日本でまかり通ってきたのは、先ず政府にお金を集めてから政治家が消費先を決定することで、政治家に利権を獲得させるためである。これは日本政府だけではなくEUやOECDなどにも共通するもので、Brexitやトランプ氏などの政治的潮流はこうした利権への反発であることは以下の記事で説明した。

イギリスやアメリカよりも政治的に遅れている日本においては、政治家のそうした振る舞いはいまだ許されている。だからベーシックインカムは自民党にとってもメリットの薄いものであるはずである。

安倍首相にとっても、参院選で改憲勢力を確保した今、ベーシックインカムを押し通すために様々な方面に譲歩をして政治的犠牲を払う理由はないだろう。そして再度言うが、そこまでして年間50兆円のヘリコプターマネーを実現しても、ドル円押し上げという意味では米国の量的緩和再開にすべて打ち消されるのである。

結論

長くなったが、纏めると先ずはヘリコプターマネーという言葉が何を意味するのかをはっきりさせることである。その詳細を詳しく考えれば、それがマネタリーベースや実体経済にどのような影響をもたらすのかが見えてくるだろう。

上記のように、個人的にはヘリコプターマネーを行ったとしてもドル円の救済は難しいと考えているが、日本の投資家であればポジションにかかわらず円が上がるか下がるか心配だろうから、そうした読者に対して一貫して薦めているのは、金を買っておくことである。

わたしは昨年12月の底値の段階で買い付けを開始し、それを最善の選択と信じて、それをリアルタイムで読者にも伝えてあるから、今から金を買う人に対してどのタイミングで買えばいいかを言うことは出来ない(わたしの答えは「昨年12月に買うこと」となる)が、覚えておくべきは通貨切り下げ競争は今後も悪化するだろうということである。

世界的な通貨切り下げ競争の悪化は金価格を史上最高値まで押し上げるだろう。史上最高値とは2,000ドル付近である。現在の金価格は1300ドルである。世界経済がわたしの想定する水準まで悪化するとすれば、金相場のバブルは2,000ドルでは止まらないかもしれない。日本政府によるヘリコプターマネーの検討は、こうした狂気の一例を示すものだろう。